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フィンセント・ファン・ゴッホ

ゴッホのここがすごい!

ゴッホ、印象派、油絵

ゴッホの技術にも感動しますが、彼の内に秘めた熱い情熱がそのままキャンバスにこめられているところに魅力を感じます。
生きているときは全く売れなかった彼の絵、今となっては絶大な評価を得ていますが、彼が生きているとき、絵が売れなくても絵にかけた情熱や苦労にめげなかった性格、本当に絵を描く事が好きな人柄に尊敬を抱くばかりです。
日本にも刺激を受けたようで、彼の絵画に浮世絵や日本画が取り入れられているところにも、共感を感じずにはいられません。彼の絵が、日本人の心をとらえているのは、こういう部分も影響されているのだ、と思います。
作品は何点もあり、実際に見た事もありますが、あの南フランス、アルルの架け橋などに描かれた強烈な太陽の光、あの光を奇麗に独特な表現で描かれているところにとても感銘を受けました。
筆遣い、使用した色、タッチ、全てが力強く、躍動感があり、光を忠実に再現して、本当にすばらしい限りです。
生き様はさまざまいわれておりますが、そこにも彼の魅力を感じずにはいられません。

どの画家も、ゴッホの作品に魅了され、刺激を受けてきたに違いありません。全ての画家のお手本なのかな、とも思います。

文:なお

真面目さと狂気の人…ゴッホ

ゴッホというと日本人が好きな画家としてあげる人も多いと聞きます。
彼の何がそんなに日本人の心を捉えるのでしょうか?

そういう私もゴッホのファンです。
メトロポリタン美術館に大好きな糸杉があると聞いて、もちろん行きました。
自画像まで見れてとても満足しました。

以前日本にゴッホ展に行ったとき思ったのですが、彼は決して元々絵がうまかったわけではない。
ミレーの模写をいくつか見ましたが、人間のバランスが変だったり、絵全体が「ん?」と思わせるものがありました。

しかし、ゴッホに限らず画家の多くがそうでしょうが、他人の目は気にしていなく、描きたいものを描く!の気持ちでいたと思います。
時には自信を無くし、弟のテオに手紙で泣きついたりしたようですが、フランスのアルルにゴーギャンを呼んだ時にはきっと自信に満ち溢れていたのだと思います。
自分の主張を自信満々に力説するも、喧嘩が耐えず最終的にゴーギャンはアルルを離れてしまい、ゴッホはいよいよ精神に破綻をきたしたそうです。

しかし、その後描かれた絵は私の中でもお気に入りのものが多いです。
病院の庭を描いた明るい作品なんて、本当にゴッホが描いたのかしら?と思うほどです。
そんなゴッホも37歳で自ら死を選択しました。
唯一の理解者、テオと今も隣同士のお墓で静かに眠っています。

文:jaimeraisretourneraunpays

死後に評価された悲運の天才

ゴッホは生涯を終えるまで、画家として評価を得ることがありませんでした。代表作である「ひまわり」や「糸杉」は、どれも死後にその価値を見直されたものです。ゴッホの印象といえば、狂気の天才というイメージがあり、情熱的で短気な性格の人物を想像しがちです。しかし、実際は絵画の創作活動を始めてからも美術学校で熱心に勉強をしたり、他の画家から指導を受けるなど、非常に真面目な性格の持ち主でもありました。自分の芸術に対する思いがとても強く、理想を追求するあまり、他者との関係がうまくいかない不器用な性格でもあり、それが彼の画家としての成功を遠ざけていたのかもしれません。

ゴッホの作品は、芸術に対する理想や想いを秘めた情熱的な一面と、現実社会に対する諦めや悲しさがあらわれている一面があります。生前は画家としての評価も収入も無かった苦しさや、絶望が作品にもよく表れています。晩年は精神病院での生活を余儀なくされても、創作活動を諦めることなく芸術への理想を貫いた作家でもあります。死後にその作品の素晴らしさが評価され、ゴッホは死後に初めて画家になることができました。生前の芸術への熱い想いや、それを表現した作品が決して日の目を見ることはなかった悲運の天才です。

文:あやぱみゅ

ゴッホの描くエレガントな花の絵画

都内ですごくたくさんのゴッホのコレクションがやって来た年があってやっぱり話題の美術展だったので行ってきました。お目当てはゴッホのイエローを使った作品をたくさん観ることでアルルの風景画等も観たいと思いました。ゴッホの作品でどうしても印象に残るのはあの黄色を使った作品ですがこの展覧会では人物画も多くとてもゴッホの色んな面を多角的に観ることができたような気がしました。あの有名なひまわりも何度となく新宿迄よく見にいきましたがすごい価格で落札されたとかそういうこともこれだけ認められる前からは誰も想像出来なかったのではないでしょうか?ゴッホの面倒をみていたパトロンのような弟のテオでさえきっとそうなのではないかと想像したりしてしまうんです。よくゴッホの描くモチーフに南仏にいたせいか植物や風景画が多いと思いますが以前洋書で゛ヴァンゴッホフラワーズ″というゴッホの花のモチーフだけを集めた画集を見たことがあります。あの鬼気迫るようなタッチで描かれた植物はひまわりをはじめアイリスもなぜかモダンでエレガントに感じてしまうんです。日本人のファッションデザイナーでケイタマルヤマというブランドがありますがそのコレクションにゴッホのアイリスがモチーフに使われたドレスがあってはっきりいってすごく欲しくなりました!素敵で♪

文:まやにゃん

日本にも影響を受けたフィンセント・ファン・ゴッホ

日本でも大変人気のある印象派画家のフィンセント・ファン・ゴッホの絵画は「向日葵」などは誰でも知っている有名な作品ですが、初期の作風はとても暗い色合いが特徴的で、殺気すら感じられる後期の作品とはまた違った味わいがあります。有名な作品の中でヌエネン時代の「馬鈴薯を食べる人達」や「三本の瓶がある静物」などは農業を営む暮らしぶりが豊かでは無い題材がモチーフとして描かれています。
ゴッホが明るいはっきりとした色合いを好むようになったきっかけは日本の浮世絵の影響があったと言うのは有名な話ですが、弟のテオ・ファン・ゴッホと一緒に集めた浮世絵は全部で約400枚にもなるそうでゴッホのアトリエには壁一杯に浮世絵が飾ってあったと本人が語っています。この浮世絵を見て極東日本の浮世絵に描かれたカラフルな太陽を感じさせる明るさにかなりの憧れを抱いていた様です。ゴッホの浮世絵模写シリーズ、ジャポネズリーの代表作として「花魁」「花咲く梅の木」「雨中の橋」など浮世絵を表現した作品が沢山あります。
またゴッホはチョークや鉛筆などでデッサンを数多く残しており、太いタッチで方向を力強く示しながら明暗や物の形その場の雰囲気を表現しています。パリ時代は直線のタッチで表現しているセーヌ川を題材したものなどが残されていますが、アルル時代など精神的な発作を繰り返す様になってからは油絵と同様の曲線で表したデッサンも残しています。後期の油彩画はかなり有名なものが多いですが感情をぶつけた様なタッチは写真では無く実際に本物を見て欲しいです。絵の具を筆でそのまま厚く塗りつけ直線、曲線のタッチは実際に見ることで迫力が感じられます。是非、オランダにある国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館を訪れてゴッホの絵を実際に触れて見て欲しいです。

文:しゅまさん

自らの「感覚」に忠実だったゴッホの人生。

この画家は良く知っている、教科書で見たことがある、そんな画家にヴィンセント・ヴァンゴッホがあげられると思います。「炎の画家」という異名を持ち、世界的に名の知れた画家です。
彼の人生は波乱に満ちたものです。今では彼の作品は何十億円もしますが、彼が生きているうちに売れた作品は一枚と言われます。それも彼が心の均衡を失った時に治療にあたった主治医が買った作品だけと伝えられています。
彼は弟の往復書簡に見られるよう常に新しい作品、新しい表現の追及をしました。彼の人生に見られるエピソードに次のようなものがあります。彼は生活を支えるために多くの職業を転々としました。書店の店員をしていた時、彼はこのような行動をとりました。書店で本を探しているお客さんが手にした本を見て、売る立場にあるのに「そんなつまらない本は読んではいけない」と言ったのです。当然彼は解雇されます。私は何と純粋な人だろうと私は思ったのです。そのような心は表現を「追及する心」と通底しています。自らの感性を大事にするという心情です。
彼は新しい表現を共有しようと、表現追求のために共同生活をしました。後期印象派の画家ゴーギャンとの共同生活です。ゴッホの代表作「ひまわり」がこの時期に誕生しています。そこでも、彼の情熱は、彼を「場を失う」ことにいざないます。自らの作品に対するゴーギャンの批評をゴッホ自身に対する「全否定」ととらえてしまったのです。情熱ゆえの誤解だと思うのです。彼のあくなき探求は生涯続きます。彼の作品は時代を先取りしていたと言えるでしょう。波乱に満ちた生涯が、彼の卓越した作品の創造につながったという一面は誰も否定することはできないと思うのです。

文:竹中 悟

ヴィンセント・ファン・ゴッホの作品紹介

花咲くアーモンドの枝

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「ひまわり」で有名なゴッホが、死の数ヶ月前に描いた作品です。もの悲しくも、やさしさが感じられませんか?
ヴィンセント・ファン・ゴッホは19世紀後半の画家。

さまざまな夢や職を経たのち、27歳にして画家をめざします。印象派や浮世絵と出会い才能を開花させていきますが、絵は売れず画家ゴーギャンとの共同生活にも失敗。 精神を病んでいき、 35歳のとき自らの耳を切り落とすという衝撃的な事件を起こし、37歳で短く激しい人生に幕を下ろしました。

そんなゴッホを精神的にも金銭的にも支え続けてきたのが、弟テオでした。

ゴッホが37歳のとき、そのテオに子供が生まれます。テオは子供に兄ヴィンセントの名をつけ、ゴッホは甥のために一枚の絵を描きました。それが「花咲くアーモンドの枝」です。

アーモンドは早春に咲く花です。日本でいえば梅や桜のような存在でしょうか?冬のような厳しい人生の中で春を切望する思い、テオ夫妻と自分と同じ名前の甥ヴィンセントの人生が春のように美しく恵まれたものであることを願う思い。「花咲くアーモンドの枝」にはそんな思いがこめられているような気がします。

激しいだけではないゴッホの一面をあなたも感じてみてください。

文:sophia

ひまわり

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言わずと知れたゴッホの「ひまわり」は、1888年の作品である。ゴッホにとって向日葵という花は、南仏の良き思い出を象徴するものだったとされている。ゴッホは激情家としても知られており、精神を病んで精神病院にも入院している。入院してからは、向日葵の絵を描かなくなった。

しかしあの花びらも散り、ほとんど枯れかけた向日葵の絵を見て、あれが良き思い出の象徴だと感じる人は少ないのではないだろうか。少なくとも私には、むしろ暖かく穏やかな日々の中で、崩壊寸前のギリギリの精神状態を表しているようにしか見えない。南仏の幸福な日々を風景によってよりも儚い花を描くことで、その中で最後まで自分を保とうと苦しんだゴッホの心を表しているように感じる。それゆえに、この花がいつまでも私の中で枯れずに、力強く焼付くのである。

それでもゴッホのひまわりから灼熱の太陽を感じ取ることが出来るのは、ひとつは既存の油絵のルールを無視した技法にある。ゴッホは油絵の絵の具が乾ききる前に、絶妙なタイミングで色を重ねている。そのため微妙に色が混ざり合い、視点の定まらない、蜃気楼のような熱を描くことが出来ているのである。さらに、ゴッホはこの絵一枚を描くのに白い絵の具を何本も使ったという。向日葵を育て、そして枯らしていく強い夏の日差しを、白を多用することにより表現しているのではないだろうか。

「ひまわり」はゴッホの、あるいは人間の狂気にも見える純粋な情熱を見事に表した不朽の名作である。

文:まりあんぬ

狂気の中で描いた風景「星月夜」

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「星月夜」そのロマンチックなタイトルとは裏腹に、その絵はうねっています。
うねっている・・・絵画の表現としては意外かもしれません。しかし、見ればわかります。星空が、三日月が、シルエットとして浮かび上がっている糸杉でさえ。ほとんど溶き油を使わない油絵具の粘着性を利用して、うねるような風景が描かれています。

この絵を初めて見た人は、戸惑うのではないでしょうか。
この絵は何だろう?どういうジャンルなのだろう、と。

シュールレアリスムのようでいて、決してそうではない。普通の風景がとも違う。本当にゴッホ特有のタッチとしか言い表しようのない絵。ゴッホはもともと独特のタッチを持つ画家でしたが、この作品ではそのタッチが非常に顕著です。
それはおそらく、この作品が描かれた時のゴッホの精神状態にもよるものだったでしょう。

ゴッホには生まれながらにして深い心の傷が宿命づけられていました。
ゴッホが生まれる前、幼くして兄が亡くなったのです。ゴッホの両親は幼い我が子が亡くなった後に生まれたゴッホを、まるでその身代わりのように扱います。自分が生まれる前に亡くなった兄と同じ名前を付けられ、兄の墓を見て育ったゴッホは常に死の恐怖に怯えていました。また、両親は自分を見ているのではない、自分を通して亡くなった兄を見ているのだという不安に駆られて育ちます。

心の深い傷を負ったまま育ったゴッホは、職を転々とし、父の職業である聖職者になろうとして、それも挫折。画家の道を選びます。しかし、絵は全く売れません。弟、テオの援助を受けながら細々と描きます。が、突然、画家のコロニーを作ろうという夢想に駆られたりと奇行も目立ちました。そのコロニー計画は金銭的に困ったゴーギャンが来ただけでした。そしてやがて二人は決別。

ショックを受けたゴッホはショックのあまりに自らの耳を切り落としてしまいました。
やがて精神病院に入院。
その入院中に描かれた作品の一つが、この「星月夜」なのです。

深い拒絶を何度も体験し、精神を病んだゴッホには、美しい星空さえ本当にこんな風に激しく見えていたのでしょう。
この作品の数年後、ゴッホは絶望のあまり小麦畑でピストル自殺をして、37歳という短い生涯を終えました。
不幸と絶望の中で生きたゴッホでしたが、その悲しみをキャンバスにぶつけた情熱は死後にようやく評価され、今では美術史に残る偉大な画家となりました。今のこの評価の高さを、ゴッホはどんな思いで見ているのでしょうか。

文:小椋 恵

日本に憧れたゴッホの模写「日本趣味・おいらん(英泉による)」

ゴッホがおいらんを描いていたのをご存知でしょうか。
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この絵は、オランダ・アムステルダムにある国立ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ美術館に収蔵されています。
1860年代から、パリの芸術家の間に空前のニッポンブームが起こりました。
日本の風景画のもつ構図、季節感、そして色彩が印象派の画家たちに受け入れられ、彼らの中に取り込まれていったのです。
ゴッホもまた、強く影響を受けた一人でした。
ゴッホは浮世絵を油絵で3枚模写しました。その中の1枚がこの絵です。
日本を特集した雑誌の表紙に載っていた英泉の「花魁」をまずトレーシングペーパーに写しとり、それを正確に拡大してキャンバスに描きました。
いかにもゴッホらしい、「ひまわり」をも連想させる鮮やかな黄色を背景に、艶やかな花魁が描かれています。
浮世絵の美人画特有の構図でありながら、全く違う印象を見る人に抱かせます。
日本への憧れが高じ、浮世絵の鮮やかな色彩と通じる強い太陽の光を求めてゴッホは居を南仏アルルへ移します。その地で確立された力強い線と鮮やかな色彩のゴッホの画風に、浮世絵はどれだけ影響を与えたのでしょう。
ゴッホ美術館には、彼と弟テオが収集した浮世絵版画も数多く収蔵されています。

文:雪まつり

人の心に寄り添うゴッホ

ジャガイモを食べる人々

暗闇の中、食卓をともにする人々。
ゴッホの絵は強烈な黄色を使って絵を描くというイメージがある方も多いかもしれません。しかしいくつかの絵の時代を経たゴッホには、「暗黒の時代」といわれる時代もありました。パリにいる頃ゴッホが興味を持ったのは他人が描こうとしない人々。ゴッホの興味を引いた人々の中にこのジャガイモを食べる人々も入っていました。
私がこの絵に惹かれたのはそれが象徴しているものと、その背景にあると思われるゴッホの熱い思い。キリスト教の教育を受けていたゴッホは社会の問題に関心を強く持っていたようです。この絵を見て気づくのは、暗闇の中を照らす光。その光が照らしている食卓を囲んでいる人たちの表情。光は目の前にある今日の食事も照らしている。目の前にあることだけしか照らさないこの光は、たくさんの苦労を横において、今目の前にあることに目を向けようとする人々を象徴しているように思える。そしてそこにスポットライトを当てたいと願うゴッホの切実な思いを感じます。
画家である自分には何ができるのか?彼らをただ描くのではなく、彼らの内にある何かを引き出しその絵を見る人たちに訴えること。そのゴッホの人の心に寄り添う思いがこの絵を見ると伝わってくるような気がします。

文:ラブリー

ジャポニズム:チャレンジ精神旺盛なゴッホ

「ひまわり」(1890年)などの絵で知られる画家のゴッホは1880年代にパリに移り住み、そこで印象派と浮世絵の影響を受けました。ゴッホも新しい表現を模索し、それを積極的に自身の絵に取り入れることで絵の世界を追求していったようです。この時代、パリでは特に浮世絵が流行し、たくさんの複製画が出回っていました。
そんな中、ゴッホ自身も独自にその絵を観察し研究したようです。彼が1887年に描いた「花咲く梅の木」にはその鮮やかな色合いと、大胆な絵の構成で新しい領域を開拓するゴッホの姿が見られます。もともと浮世絵の巨匠歌川広重が1857年に描いた作品には、西洋美術にはない独特の表現力と魅力があったようです。ゴッホはこの絵を模写することで、自然の世界を描くための解釈を広げようとしていたのでしょう。
ゴッホの絵は歌川の作品より、色が鮮やかに描かれています。赤色の空がとても印象的です。また、木の色がはっきりとした茶色に描かれているのも目に留まります。この絵の中に書かれている漢字を見ると、チャレンジ精神旺盛なゴッホの姿を思います。
同じ時代にゴッホは、ジャポニズムに影響を受けた作品として、「おいらん」や「タンギー爺さん」という作品も描いていて、積極的に新しいことに取り組もうとするゴッホの画家としての違う一面を見ることが出来ます。

文:ラブリー

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